駒大苫小牧高校野球部の不祥事から考える

この事件に関しては色々な面で強い違和感を感じたので、
マスコミ報道等が落ち着いてから書こうと思っていた。
が、トラックバック元の西正さんの意見を読んで触発されてしまった。
というわけで、「スポーツ」という領域にとらわれずに自分なりの考えを
拙速かも知れないが、書いておくことにする。


(先ず最初に断っておくがするが自分は極めて
 “連帯責任→連帯処分”
 というシステムが嫌いである。もう生理的に受け付けないほどである。
 (理由は自分でもよくわからないが…))


さて、今回の不祥事において、駒大苫小牧高校の1、2年生の野球部員は
非常に理不尽な連帯処分対象になってしまった。
不祥事を起こした者[つまりは責任を負うべき主体]は、
(野球部から)引退・卒業した者自身であるにもかかわらず、
この不祥事に対する処分は“連帯責任”という名のもとに、
現役の野球部員が“連帯処分”を受ける羽目になったのである。


おかしい。何かが間違っている。“連帯責任→連帯処分”という領域さえも
超えてしまっているのではないか。何故か?それは
[責任を負うべき主体]と[処分される主体]
が厳密に見ると不一致だからである。
卒業した部員は(学校や高野連から)何か処分を受けるのか?おそらく無いだろう。
(内定していた進学先や就職先が取り消しになるのは正に自業自得で、
 この時期の一般の学生と同じである。また、卒業の取り消しは殆んど無いだろう…。)


ところが現役の野球部員は[責任を負うべき主体]ではないと
一般には感じられるだろうにもかかわらず、[処分される主体]になってしまった。
この点が違和感の正体ではないだろうか?


元々、高野連を筆頭とする所謂「学生スポーツ界」の処分規定などは何故か、
“個人”の不祥事に関しても“学校(チーム)単位”で処分が科されることが多いようで、
何か現代の民主主義の世界とは違う、ズレたルールの基で活動しているようにも見える。


話は逸れるが、“連帯責任→連帯処分”と言うシステム自体が近代に入っては、
軍隊やそれに倣う組織くらいにしか見られないのだから「学生スポーツ界」は
軍隊に準ずる組織なんですかね?と皮肉りたくもなる…。
なお“連帯責任→連帯処分”という仕組みが文民に使用された悪例としては
江戸時代(中世)や日中・太平洋戦争中の所謂「隣組」制度がある。
これは「世間」と言う名の神様を使った、日本独自の相互監視システムでもあった。
この神様は「世間」様が壊れた今でも時々顔をのぞかせる厄介な者である。


話を元に戻すと、自分の意見は簡潔にまとめれば
「もう“連帯責任→連帯処分”というシステムはやめ、
 個人が“責任”を取り、“処分”を受けるシステムにしよう」

ということなんですが、なかなか今すぐには変わらないのでしょうか?
今回の件をきっかけに社会全体が「現代の個人主体の世の中と“責任”の取り方」
というモノについて、もっと真剣に考えてくれればよいと思うのですが、、、
なかなかそうはいかないのかもしれません。