世界大戦と「新しい戦争」について
アメリカ合州国における9.11テロ以降の戦争で使われるようになった、「新しい戦争(New Warfare)」についての私自身の見解を本エントリーでは述べておきたい。
それにはまず、近代以降の「それまでの戦争」がどのような戦争であったのかを定義しなければならない。
おおよその話だが、現在、第一次世界大戦と呼ばれる「欧州大戦」以前の戦争は
- おおよそにおいて二国間で
- 宣戦布告をし(非日常の発生)
- 国家政府・国家正規軍同士が戦闘行為を行う
と定義されるものであった。
これが「欧州大戦」で大きく定義が変わる。
1.の二国間というのが各国同士の安全保障体制(安全保障条約)によって同盟を結んだ多数の国家が入り乱れて行うようになったのである。つまり「欧州大戦」以降の戦争は
- 多数の国家間で
- 宣戦布告をし(非日常の発生)
- 国家政府・国家正規軍同士が戦闘行為を行う*1
と定義されるものに変化した。
そして、この「欧州大戦」はおよそ70年間続くのである。
読まれている方には、あれ?確か社会科の歴史の授業では
「第一次世界大戦・第二次世界大戦・冷戦*2」
と習ったはず……と思われる方も多いと思うが、実は「欧州大戦」はこの三つの戦争を通して、延々半世紀以上にもわたって世界政治を動かしてきた要素なのである。
発端はバルカン半島のセルビアであり、冷戦の終結後しばらく続いたバルカン半島のユーゴスラビア内戦の終結をもって終わる「長い戦争の世紀・20世紀」だと後世の歴史家によって語られるであろう視点に立つのが、私の持論である。
話を元に戻そう。
この「欧州大戦」が終結し、世界がつかの間の平和を味わった後に起こるのが、アメリカ同時多発テロ(9.11)以降の「新しい戦争」であり、ここでまた戦争の定義が変わるのである。この戦争は俗に「対テロ戦争」とも呼ばれ、
- 多数の国家間で
- 宣戦布告も無く、テロ行為のように日常の中で発生し
- 国家政府・国家正規軍とテロリスト(非正規軍)や市民生活のあいだで戦闘行為を行う
と定義されるものに変化したのである。
この戦争の特徴は太字強調部にあるように日常と共存し、戦場ではなく市民生活に深く入り込んだものである。混乱状態が深まれば、現在のイラクやアフガニスタンのように半ば内戦にも似ていて、比較的平和な先進国には関係の無い話のように思えるが、実はそうではない。日本でもこの「新しい戦争」は始まり、それによる国家正規軍の投入はないものの、国家政府(≒警察権力*3やNPO等に偽装された諸団体))による市民生活への介入が日々激しくなっているのである。
では、いつ日本ではこの「新しい戦争」が始まったのであろうか?
そして、市民生活への介入とはいったい何であろうか?
前者は1995年のオウム真理教による地下鉄サリン事件を契機として、世界より一足先に開戦したのである。
後者は数え上げると枚挙に暇が無いとも言えるほどにある。具体的には、「多数の些細な民事(みんじ・たみごと)」を法律や法令・条例といった公権力でもって“定義”する。それによって、以前は市民同士で解決していた問題に対しても国家がいちいち口を出すのである。その簡単に見える典型ともいえるのが≪禁煙ファシズム≫であろう。ちなみに私はこの言葉は正確には間違っていて、≪禁煙スターリニズム≫と呼ぶのが正解だろうと思う。そして、こういった些細な安全・犯罪の防止や清潔を理由に、良かれと思って行われる行為に思わぬ落とし穴が待ちうけているのである。
を組み合わせれば、あっという間にジョージ・オーウェルの『1984年』で著された監視社会型スターリン(全体主義)社会の完成である。既に上記のうち下の3項目によって「移動の自由」はもはやこの国では風前の灯火である。
日本だけではなく、世界の先進国で「安全・保安・清潔の三原則」「安心・安全・清潔の三原則」を理由に「新しい戦争」の戦線は日常に深く入り込んでいるのである。
もちろん私自身は私自身の自由のためにこの「新しい戦争」に抗っていきたいと考えている。
参考文献:
外山恒一 著『戦争は遠いアフガンやイラクではなく、他ならぬこの日本国内で起きている』http://www.warewaredan.com/senso-nihon.html『まったく新しい左右対立──イデオロギーX──』http://www.warewaredan.com/ideologyx.html
古山雅之 著『「新しい戦争」とは何なのか?』http://www.ne.jp/asahi/frontier/journal/020714.htm